C型肝炎ウィルスへの感染が社会問題化しました。このページは、筆者が個人としてこの問題で何が出来るかを考えた道筋を整理してまとめたものです。特定の結論を記したものではありませんが、考え方として参考になればと思い掲載しています。
まず次の4点に分け、順を追って考える。
そもそもC型肝炎とはウィルス性疾患であり、C型肝炎ウィルスに感染した血液に、直接もしくは間接に接触するのが主な感染原因である。
感染経路が血液の為、一般に下記医療行為を通じての感染とされる。
また、医療行為ではないが、入れ墨、刺青、ピアス等で器具の使い回しによる感染も考えられる。
社会問題である以上、社会構成員としての当事者の役割が論点である。
つまり理解を深める手立ては、当事者それぞれの、
を知る必要がある。
行政・立法・司法であれ、製薬企業であれ、医療機関であれ、組織としての行為はその組織主体の利益を目的とするのは自明である。国家権力がその存立要件を全うし、私企業が利潤追及を極小化し得て公的な色彩を強め、公的機関は公共の福祉一般を実現したとしても、組織の行為の下に個人は埋没してしまう。
そもそもは、個人が受けた、出産と言う生命の基本的行為に伴う投薬や、病の治療を通じて、理不尽にもウィルス感染したのが原点である。その個人個人に感染したウィルスが完全に駆除できることが、問題解決の基本である。
過去に起こした不正や不手際があれば無論のこと究明し責任追及して罰し償わせる。体制上に不備があったのであれば、正す必要がある。同様な問題を今後起こさないような工夫を講じる必要も無論ある。補償も当然必要である。これらは社会的問題であり、社会的に組織力を以って解決を図る必要性があるのは言うまでもない。しかし、仮に十分な措置が取られたとしても、それは現在の被感染者が抱える具体的痛みの解消には決して結び付かない。感染したウィルスの完全駆除が叶わないなら、健康を返せという叫びは消えるはずもない。
個人が出来ることは少ない。参政権の行使は無論ある。それは重要な権利の行使には違いないし蔑ろに出来ないが、これも残念ながら個人としての行為ではなく組織の一員としての行為にならざるを得ない。被感染者が抱える具体的痛みは分らなくなってしまうに違いない。
個人が出来ることは、究極的には、被感染者が抱える具体的痛みに思いする以外にはない。どんな形であれ、社会的に問題が収束して行くなら、痛みを持ち続ける被感染者の存在は忘れ去られて行くに違いない。そうした近い将来に、支えになるのは、事件を招いた社会的当事者へ糾弾を続けることよりも、被感染者の痛みに思いする人々の存在(*)だと思われる。個人一般にとってそう言う存在であり続けるとはどうする事なのかは分らないが、筆者自身にとってはまずこのページをインターネットに掲載し続けることだと今は思っている。
(*)
メディアに期待するのは、そうした個人の存在を細くとも長く伝え続けられる環境を整えることである。